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彼女 −かのじょ− 6

転(弐)


放課後が待ち遠しかった。
終礼のHRが終わると、私はすぐに校門を出た。いつもよりも早いバスに乗り、 急いで家に帰る。着替えて、一刻も早く彼女の部屋に行こうと思っていたのだ。 クラスメートたちは見舞いを見合わせる話をしていたし、担任教師も遠慮するように、 と言っていたから、誰かにばったり会う可能性は低かった。だが私は彼女が心配で ならなかったし、何より彼女の言葉…あの言葉の意味を確かめたかった。 夜には担任が来てしまうだろう。だからその前に、どうしても彼女の部屋に行き、 彼女と話す必要があったのだ。どうしても。私には何よりそれが、切実に必要だった。
 だが、間の悪いこと、というものはあるものだ。
 家に帰ってみると母親はおらず、鍵は開いたままで、家の中は散乱していた。
何があったのか、呆然としていると、台所のテーブルの上に短く走り書きされた メモが見つかった。
 "お父さんが倒れられました。病院へ行きます。戻ったらすぐ来るように"
その後に病院の名が記され、母、と署名がしてある。
冗談ではなかった。どうせ過労かなにかに決まっているのだ。 倒れたくらいのことでわざわざ病院へ行くこともない。母が行っているのだし。 第一、父など、私のことを覚えているかどうかさえあやしいものだ。 最近顔を合わせたこともないし、言うことといえば、勉強はしっかりやっているのか、 夜遊びはしていないだろうな、お母さんのいうことを聞け、だ。あの男が気にしているのは、 会社での成績、人事、それにこのところの浮気相手らしい部下のOLのことだけだ。 そして母は、そんなつまらない父しか知らない世界の住人なのだ。どちらも、 私の知ったことではなかった。
それでも、顔を出さないわけにはいかないだろう。 私がかなり自由に彼女を追うことが出来るのも、父や母に対して従順なそぶりを見せているからだ。 「いい子」でいさえすれば、大抵のことは許される。顔だけ出せば良いだろう。 病院は彼女の部屋からかなり遠かったし、急がなければならなかった。着替え、 家を出る用意をしているところで、電話のベルが鳴った。
「はい?」
「もしもし?倒れたって聞いたんやけど…」
関西に居る叔母からだった。今駅にいるから、迎えに来いというのだ。
まっぴらごめんだったが、そうむげにも出来ない。
「わざわざ来られたんですか?」
「そうよ。どうしようかねえ、とりあえず、そっちいくわ」
「あ、待っ…」
有無をいわさず電話が切られる。駅ならば私から行った方が早いのだ それに叔母は方向音痴だった。この家に来るのさえ定かではないはずだ。 私はいらいらしながら到着を待った。案の定、普通の倍かけて叔母はやってきた。
「とにかく、病院の場所を教えますから」
「あんた、いかんの?」
「……」
「命危ないて言うてたわよ、あんたも来な」
「でも」
結局、押し切られ、私も行くことになってしまった。とんでも無い時間のロス。 叔母と私は1時間かけて病院へ着いた。待っていた母は呆然として座っていた。
「お母さん?」
「…どうしよう…」
「なに?」
「…お父さん、脳血栓だって…もう…」
そう、かすれた声でつぶやいたまま、母はまた視線を宙に浮かせていた。 そして私を見ると、腕をつかんで、泣き出した。
「どうしよう、どうしよう、…どうしたらいいの…」
私は吐き気をこらえて、母の手を振り払った。…これが私の母親、どうしよう、 としか言えない。何も自分で考えず、ただ父の言うことだけに従って、 父だけを中心に世界を回していた女。こんな時でさえ、どうしようとしか言えない。 娘にさえすがってしまう、情けない大人。
「私、帰るから」
「どうして?」
母は心底驚いたように私を見つめた。すがるような表情が、気持ち悪かった。 これが、いつも私に「勉強しなさい」しか言えなかった女なのだ。
「どうして、って?私には関係ないもの」
「なに、なにを…言って…」
耐えきれなくなって、私はそう言った。もうごめんだった。この、 馬鹿のような猿芝居から早く退場したかった。
「私は勉強だけやってればいいんでしょう。お母さんそう言ったじゃない。 お父さんだってそれしか言わなかったわよ。だからいいじゃない。 お父さん死んだらお葬式に出るわよ。お母さんは好きにしたらいい。 だけど私はこんなところに居たくない。私、行くところがあるの」
ぱん。
母の平手が私の頬に飛んだ。
「なんてことを…あたしがこんなに…大変な時に…なんて事を…」
ろれつが回っていなかった。でも、母の目にあるのは、紛れもない憎しみの光だった。 そうだ。こんな時。母の方だって、自分のことの方が大事なのだ。私だって、 大切なことがある。少なくとも、自分のことしか考えられない両親よりは、 ずっと大切な用事が。
私は打たれた頬に手をやって、薄く笑った。
「じゃあ」
それだけ言うと、そのまま母からはなれ、病院を出ていった。途中、 廊下で叔母とすれ違って声をかけられたが、私は、さよなら、 とだけ言って取り合わなかった。そのまま外に出、彼女の部屋へ向かった。 時間が勿体なかった。




 電車とバスを乗り継ぎ、走り通しで彼女の部屋へ向かったが、着いたのは夜になっ ていた。担任はもう来ているのだろうか。…今夜は止めた方がいいのかもしれない。
でも、今日一日は素晴らしいことの連続だった。朝から彼女に出会い、彼女を支え、 彼女の吐息を感じた。…あんなことがこれからも続くとは信じられなかった。それに、 今なら…彼女と話せる気がした。彼女は私を否定しない…私を受け入れてくれるはずだ。 そして…
彼女が欲しかった。その声、吐息、微笑み、白い肌、あの瞳、すべてが。
 私は見慣れた…だが、一度も使ったことのないエレベーターに乗り、 彼女の住む階へ向かった。エレベーターがかすかに揺れる振動がもどかしく… ついたとたん、私は飛び出していた。
だが、
彼女の部屋の前まで来て、私は急にすくんでしまった。いいのだろうか。本当に。
私はそっと部屋に近寄った。何故だか部屋の扉は少し開いていて、 ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。玄関先に誰かが居るようだった。担任教師だろうか。
(じゃあ、ご両親はご不在なのか)
(ええ。しばらくは)
(こんなマンションに独り暮らしか、豪勢だな)
(そんな事はありませんわ)
そして、また、しばらくの沈黙
(でも…)
(…そんな…)
(……)
聞こえない。私はもどかしくなって、そっと扉へ近寄った。 どうやら担任は中に上がり込んだらしく、玄関に人の気配は無い。 私はちょっとだけ躊躇した後、思い切ってその部屋の中に滑り込んだ。 高級マンションだけあって、玄関ホールと居間はきっちりわけられている。 以前、不動産屋で図面を確認していたから、間取りは当然知っていた。 玄関から住空間が直接見えないようになっているのだ。
 そのまま、音のしないよう靴を脱いで、居間の声が聞こえる場所まで進んだ。
 中では、教師と彼女が、何やら話している。
(じゃあ、ぶっそうだなあ)
(そうでもありません)
(でも、あんな事件があったろう)
(……)
(俺はな、心配なんだ、お前みたいな綺麗な子が、ひとりでいるなんて…)
(先生…)
(な、あぶない、…おまえは…目をひくし……)
(…なにを…)
(…おまえが…心配なんだよ…)
(…あ…)
私は最初、どういうことかわからなかった。あのくたびれた担任教師の声が、 少しづつ細く、するどく、ささやくように変わっていき、彼女の声がそれに応え、 小さくなってゆく。しばらく、なんの会話もなく…やがて、ちいさな、 かすれた様なあえぎ声…
(おまえがわるいんだ…こんなに…)
(…いや…)
(悪い…わるい子だ…)
信じられないことが起こっているのかもしれない、と思い当たった時、 私はどうしていいかわからなかった。中から聞こえてくる声は、 そうとしか思い当たらなかったし…―― 勿論それは実際にみたことなど無い、机上の知識なのだけど…――それに、 あの担任教師に彼女を汚せるとは思えなかったからだ。くたびれた、 中年も終わりの、冴えない男。あんなものに…彼女が…
彼女が汚されている。
私の理性は、吹き飛んだ。

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