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彼女 −かのじょ− 5

転(壱)


 それはかなりセンセーショナルな出来事だった。彼女は確かに細いし、 一見弱々そうな風情があるけれど、風邪がはやっていてもひくことはなかったので、 結構丈夫なのね、などと言われていたのだ。
 生物の時間で、彼女と私を含むクラスの約半数が、その授業を受けていた。 科学の時間は選択制なのだ。彼女は前に出て問題を解くように言われ、 席を立って2,3歩、歩いたところだった。突然、 まるで糸が切れたかのように彼女の姿勢が崩れ、全員の視界から消え… 私は飛び出して彼女に駆け寄った。
たまたま近くの席だったのだ。私の後から次々に生徒たちが駆け寄ってくる。
大騒ぎになった。
 彼女は仰向けになって倒れていた。
こんな時でも…彼女は美しかった。倒れたことで浮かび上がるのどもとが、 くっきりと白い線を描いている。額にうっすらと汗をかき、貌はおそろしく蒼い。 息はしているのが判ったが、異様に細かった。だらりと下がった腕の血管が、 妙に目につく。私はすぐに彼女の首の下に手をいれ、頭を膝に乗せた。 その重みに、私の体が震えてしまう。彼女の体は冷たかった。まるで氷のように… 私は必死で彼女の名を呼んだ。クラスの生徒たちも呼んた。生物教師がやってきて、 脈をとり、難しい顔をする…その間、ずっと、彼女の体温の無い体の重みが、 私の膝にかかっていた。
と、彼女は目をあけた。
なにかをつぶやいているようだが、聞き取れない。やがて、苦しそうな表情のまま、 体勢をかえようとした。横を向いたのだ。…彼女の口唇が、私のスカートの上から、 私の脚へ押しつけられた。
 びくん。
届くはずもないのに…スカートをすかして、彼女の吐息が私の体に触れたような気がした。 震えが、止まらない。
「大丈夫か?」
生物教師が聞くと、彼女はゆっくりとうなずいた。とても大丈夫とは思えない。
「ともかく、保健室へ連れていこう。立てないようなら…」
「…いいえ」
彼女はかすれる声でそう言うと、ゆっくりと動いた。私の肩に手をかけ、 私の手を取り、立ち上がった。
「ひとりで…行けます」
私の肩に手をかけたまま、彼女は言う。私は自然に彼女の体を支えていた。 そうしなければ、折れてしまいそうだった。
「馬鹿を言うな、おい、保健委員はだれだ?」
「私です」
私はおどおどと応えた。本当だった。…くじ引きで決まったことだったし、 今まで日報くらいしかつけたことは無かったが、私はこのクラスの保健委員なのだ。
「ちょうどいい、そのまま保健室へ連れて行け。大丈夫か?」
私が返事をするよりはやく、彼女が言った。
「はい」
そして私は…私たちは、保健室へ行くことになったのだった。そう、ふたりで。
ふたりきりで。

 保健室まで、彼女は口をきかなかった。
実際苦しそうだった。行く間、私は彼女を横から支えていた。彼女の体に手を回し、 肩をだき、片方の手で彼女の手を握った。彼女は驚くほど素直に、 私に体をあずけて歩いていた。握った手を握り返し、私に半分もたれかかるようにして歩く。 背中がぞくぞくするほどの快感だった。彼女の小さな吐息が、私の頬にかかるのだ。 彼女の冷たい体温が、私の四肢に伝わってくるのだ。彼女の細い躰が、 私の腕の中にあるのだ。なんということだろう。それでも、 私はそれを素直に喜ぶことは出来なかった。彼女が心配なのだから。…でも、心の奥底では、 彼女が倒れたことに驚きながらも、絶対に大丈夫だと確信していた。なぜだか判らない。 だが、彼女は大丈夫なのだと、私にはわかっていた。
「大丈夫…?」
 途中で、思い出したように聞いてみるが、彼女は一言も口をきかない。そうなると 不安でたまらなくなった。私がついてくることが嫌なのだろうか。 何か怒っているのだろうか。埒もない。彼女は苦しいのだ。返事など出来ない。
そうはわかっていても不安は拭えず、私ははやく保健室へつかないかと冷や冷やしていた。 彼女と密着していたいというささやかな欲求、彼女の真意を知りたいという、 これまたささやかな願いは、保健室へつくことで終わった。
 彼女をベッドへ運び、軽い布団をかぶせると、あっという間に寝息を立て始めた。
しばらくすると顔色も戻ってゆく。青白い頬が薔薇色にそまってゆくのは、 息を呑むすばらしさだった。その姿にぼおっと見とれ、そして、私はため息をついた。
なんて美しいのだろう。
幾度も見つめ、その姿に見ほれてきた。毎日その後を追った。どんなとき、 どんな場所でも彼女の美しさは損なわれなかった。何を言っても、何をしても、 その一挙一動が感嘆の連続だった。私にとって彼女は神に等しかった。
その彼女が、今、私の目の前で、小さな寝息を立てている。
小さな、やわらかな吐息。
知らず、私の手は彼女の頬に伸びていた。つ、とふれる。 そのまま手のひらをあてた。ゆっくりと、首筋をなぞり、うなじをさぐる。 彼女は動かない。
私はなぜだかとても自然に…その顔に顔を近づけた。彼女の吐息が私の頬にかかる。 甘い、花の香りがするような気がする。そして、私の口唇は、彼女のそれに、そっとふれた。
彼女の呼気が私のなかに入ってくる。体中が熱くなっていた。 頬に触れた手がふるえ、口唇がふるえる。私は理性を総動員させて、顔を放し、 手を離した。
世界が回っている。
足元がふらついた。頭がくらくらする。体中ががたがたとふるえだし、 私は立っていられなくなって、ベッドのパイプを握りしめた。
…と、
彼女が私を見ているのだ!
その、大きな、夜の闇のような瞳で。
私は狼狽した。…何が何だかわからなくなっていた。咄嗟に横を向こうとしたが 出来ない。彼女の瞳が私を捉えているのだ。目をそらすことが出来ない。 その瞳は私をとらえ、すいこみ、どんどん大きくなっていくようだった。 きらきらと濡れたような輝きを増し、私を襲う…
ああ…
いい。このまま吸い込まれても…
そう思ったとき、私の手に何かがふれた。
彼女の手だった。
はっ、として私は我に返り、もう一度彼女の顔を見つめ直した。 相変わらず美しく大きな黒い瞳だったが、それはもう先ほどのように輝いてはいなかった。
「ごめんなさい」
私はきまりが悪くなり、いそいでそう言った。目をそらし、ベッドを離れようとして、 彼女に手を握られたままだと気がついた。
「あの…」
私は何か言おうとして…何も言えなかった。出来ることなら、 このまま握っていて欲しかったし、彼女は病人なのだ。それに、何と言えばよいのだ? 彼女のあまりの美しさに、ついキスしてしまったとでも…? 馬鹿馬鹿しい。 それはまるで、くだらない男共が三流映画で使う台詞のようではないか。 そんな言葉で、彼女に話しかけるのは絶対に嫌だった。私はベッドのわきの椅子を引き寄せ、 それに座った。
「…きのう…」
「え?」
彼女がささやくように言った。
「来てたでしょう…?」
何のこと…と言おうとして、私は気が付いた。彼女の部屋の近くにいたのを、見られていたのだ。
「あの…」
「昨日だけじゃない…ずっと」
うたうように…ささやくように…彼女の美しい声が、私の耳に届く。
「ずっと…朝も…帰りも」
「それは…」
私は弁解する気持ちを完全に失っていた。彼女に知られてしまったショックではなかった。 彼女の声も…その表情も、私を否定していなかったからだ。 彼女は私の行動を自然のことのように口に出し、当たり前のようにささやいた。 その間、彼女の手は私の手を軽く握ったままだった。彼女は…彼女は…
私を嫌ってはいないのだ。
そうして、彼女は微笑んだ。それは、不思議な微笑みだった。何をも見透かすような。
その瞳はまた濡れたように輝いていた。…いいのよ、と彼女はささやいた。 いいのよ。貴女でいいの…貴女を待っていたの…そんな彼女の声が私の頭の中に聞こえたような気がした。 彼女は知っているのだ。全てを。私の想いも、よこしまな欲望も、
そしてあの…あの生きものを…
「いいのよ」
もう一度、彼女はささやいた。
その時、チャイムが鳴った。



 チャイムと同時にクラスメートたちがどかどかと保健室に入り込み、 私は急いで立ち上がった。クラスメートは口々に大丈夫を連発して、 彼女のベッドのわきに群がる。
私はいそいそとその場を離れ、保健室を出ると、走ってトイレに駆け込んだ。
個室に入るとふう、と大きく息を吐き出す。…まだ夢を見ているようだった。 彼女の吐息、声、唇、そしてあの言葉。夢なら、早く醒めて欲しかった。 同時に夢であって欲しくは無かった。…もう、どうなっても良かった。 出来るならあの場で死んでしまいたかった。そうしたら、私は地獄に堕ちることだって喜んだろう。 何もかもがすべて光に満ちていた。私は満たされ、そして餓えていた。 彼女の言葉を受け入れることに。彼女の全てが欲しかった。それは許されるのか、 彼女は受け入れてくれるのだろうか。私の飢えは身体中に毒のようにまわり、 心を食い尽くす勢いで膨れ上がっていった。それでも私は幸せだった。私の、 彼女に対する想いは、いつでも飢えを伴っていたからだった。


結局、彼女は早退することになった。私は担任に彼女の様子を知らせ、 それを報告した。担任教師はくたびれた顔をしていたが、やがて私に言った。
「仕方がないな…じゃあ、伝えてくれんか。今夜伺うから、そのつもりでいてくれと」
「彼女のうちへ行かれるんですか?」
「そうだ。ご両親にもお話ししないといかんしな」
「……」
彼女が親と暮らしている、という担任の言葉に、私は少なからず驚いていた。
あの部屋を見ている限り、彼女に同居人が居るようには見えなかったからだ。 もしそうだとすれば、かなり遅くまで仕事があるのか、 あるいは家から一歩も外に出ないのか…いずれにせよ、人の気配は無かった。 …いや、というより、彼女に「家族」というものがひどく不似合いなのだ。 家族、父親、母親…そういう、人間くさいものは、彼女には似合わない。 彼女は孤高の存在であるような、そんな気がしていたのだ。
「じゃ、伝えといてくれ…いいか」
「はい」
私は短く返事をし、そそくさと立ち去った。…何にせよ、 彼女と話せる口実が出来たのは喜ばしいことなのだ。足早に廊下を歩き、 保健室へと向かった。



 保健室では、まだクラスメイトが騒いでいた。…嫌になる。 彼女は具合が悪いのだ。気をきかせて静かにすることが出来ないのだろうか。 なんて馬鹿な子たち。吐き気がするほど猥雑で、節操のない、愚かな生きもの。 彼女の素晴らしさに見とれるくせに、その体を気遣うこともできない。
私が入ってゆくと、女子たちはお喋りを止め、けんのんな目つきで私を睨んだ。 かまわず彼女の方へ進んだ私は、担任教師の言葉を伝える。その時、 そっと彼女の瞳を見つめた。
だが、私の甘い希望は無惨にも切り裂かれた。彼女は私に何の注意も払わず、 わかりましたとだけ返事をした。私の視線には、なんの返事もなかった。 なんの…なんの感情もこもらない、ただの微笑み。そこで初めて、 私は彼女の微笑みに二つの種類があることに気が付いた。同じように微笑んでいても、 確かな違いがある…彼女の、誘うような、魅惑的は微笑みと、儀礼的な、 かざるようなそれ。見たところなんの違いもないのに。きっとクラスの女子たちは、 彼女のあの「本当の」笑みを知ることはないのだ。そしてその時私に向けられた笑みは、 その儀礼的な微笑みでしかなかった。
「いつまでいるのよ、あんた」
意地悪な声で、女子のひとりが言った。気が付くと、 クラスメートの中に嫌な雰囲気が立ちこめていた。 瞬間的に、私は悟った。嫉妬、だ。彼女をここに連れて行き、世話をした私への…。
「タクシー、来てるから…」
私はそう言ってもう一度彼女を見た。サインが欲しかった。私を見ているというサイン、 わかっているというしるし、私を否定しない…あの、いいのよ、とささやいた瞳。
 だが、やはり彼女はうわべだけの微笑みをうかべ、私に礼を言っただけだった。
そのまま他のクラスメートの肩を借り、立ち上がり、部屋を出ていく。 他の子たちもそれに追従して保健室を出てゆき…大騒ぎの中心は、 あっという間に居なくなった。
私はひとり残される。

哀しみと悔しさがこみ上げてきて、どうしようもなかった。

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