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彼女 −かのじょ− 4

承(参)


 もはや、私に怖いものはなかった。


 その日も私はいつも通りに家を出、彼女の通るはずの道へ向かって歩いた。
未だに彼女が登校する姿を見たことはない。どこからバスに乗るのか、 何処かで降りて歩いているのか、それとも何か別の方法で通っているのか。 今の私にとって一番の関心事といえばそれだった。私は期待しているのだ。 朝陽の射す道で、いつか偶然にも彼女と出会い、「おはよう」と声をかけられるのを。 それが、かないそうも無いと判れば、人は余計に夢を見る。親しく話すこと、 何が好きなのか、どんなことを考えているのか、そんな他愛もないことをお喋りすること。 爽やかな朝、すがすがしい太陽、心地よい風。何もかも夢のような満ち足りた、 でも当たり前の朝の風景。
出会わない、と判っているからこそ、その空想は限りなく甘美で、そして残酷だ。
でもそれを想像せずにはいられない。私はうっとりと空を見上げながら、 彼女の歩くであろう道を歩き、彼女が聞くであろう騒音に耳をすませ、 彼女が吸うであろう空気を吸った。
「おはよう」
ふいに…後ろから、涼やかな声が聞こえる。いつもの夢と同じ場所、同じ声…
同じ、こえ…?
「え…」
「はやいのね。あなたのお宅、こちらの方なの?」
咄嗟に、声が出ないのが判った。おそろしいほどゆっくりと時間が… 一瞬にして過ぎ去る。頬に当たる風のような軽やかさで、硬直が私を捕まえた。
体をきしませるようにして、後ろを振り向く。
そこに――彼女が立っていた。
 朝の陽を受けて、その頬が薔薇色に輝いている。軽くなぶるような風が、 そのやわらかそうな髪をもてあそぶ。制服からのぞくすらりとした白い手足。 夜の闇を映したような、大きくて美しい瞳。あるかなしかの微笑みをたたえた口唇。
夢ではない。
彼女だ。
「あ…」
突然スイッチが入って動き出した機械のように、私の心臓が音を立てる。どくん。 どくん。どくん。どくん。それは全身に鳴り響き、 脳髄へと上ってハンマーへと変わった。耳の奥で血が逆流しているようだ。 どくん。どくん。どくん。どくん。
それなのに、私の顔ときたら阿呆のように固まってしまったまま、驚愕の表情を隠せない。
ふ、と微笑んで、彼女はそのまま通り過ぎていく。何事もなかったように。 涼やかに。それでも私は動くことが出来ない。ただ馬鹿のように突っ立っているだけだ。 動かなければ、動いて、彼女を…
だが、私は動けない。
彼女の軽やかに歩いてゆく姿を見つめて、私はただじっと、 その場所にに立ちつくしているだけだ。
(夢…まぼろし…)
いいや、違う。
彼女なのだ。間違いない。彼女自身、本物なのだ。
「ま…」
私は渾身の力をふりしぼって、口を動かした。息をするのさえ、労力がいった。
体中の全ての筋肉ががちがちに固まっていた。思い切り息を吸い込み、吐き出し、 喉をふるわせて、その言葉を叫んだ…つもりだった。
「待って!」
だが実際には、それは蚊の鳴くような小さな声にしかならず…私はさらに息を吸い込み、 そして彼女の名を呼んだ。
つ、と彼女の足が止まった。優雅な仕草で、私の方を向く。この、私の方を!
ああ…
「…どうしたの?」
涙が溢れていた。彼女の声がまるで金縛りをとく呪文であったかのように、 私の全身を駆けめぐり、ゆっくりと硬直を溶かしてゆくのが判る。
「まって…その…」
私は駆け出していって、彼女に追いついた。興奮で、何を言っていいのかさえ判らなかった。 わかっていることは、彼女が私の方を向いて微笑んでいるという事
だけだった。追いついた私に、もう一度彼女は微笑むと、急ぎましょう、 と当たり前のような事を言って歩き出した。私も当たり前の、ええ、 というような返事をしたようだった。その後、私は…私たちは、何も話さず、 ただ黙々と学校へ向かって歩いた。


それが、私たちのはじめての蜜月だった。



教室についた私たちを待っていたのは、幾分嘲笑を含んだ好奇の目、 そして何かしら重い空気と、小さなざわめきだった。そのそぐわない組み合わせに、 私は多少違和感を覚えた。嘲笑、好奇、それは判る。私にはいつものことだ。 彼女が私と共に登校してきたことが物珍しく、そして面白いのだろう。 クラス一の美少女で人気者の彼女と、同じくクラス一の…嫌われ者。 他の子たちにとっては恰好の見せ物だ。
 だがこの、いやに沈んだような空気はなんなのだろう。
ただ重いというだけではなく、それは妙な熱を帯びていた。そして私たちは… 私に向けられた目は、それぞれの席に着いた時点で、その空気に呑まれ、消えてしまったのだ。
むしろそれは有り難いことでもあった。私もいつものこととはいえ、 からかわれたり嫌みを言われたりするのは決して好きではなかったし、 彼女があれこれと言われるのはとんでもなく嫌だった。だから私は、素知らぬふりをしながらも、 その重い空気の合間から聞こえてくる小さなざわめきに耳をすませた。
(頭ぐしゃぐしゃだったって)
(おっこちたらしいよ…)
(塾に行くって…出かけて…)
誰かが投身自殺でもしたのだろうか。私は今朝の新聞を思い返してみた。が、 該当するような記事は思い浮かばない。
(…それが…)
(…町の…マンション…)
(彼女の…)
ぴくり、と私の肩が動いた。…彼女の名前が出たからだ。
では、それが起こったのは、彼女の部屋の近くと言うことなのだろうか。
「おはよう!」
がらり、と教室の戸が開き、くたびれた担任教師が入ってきた。一瞬、 クラス中が静まりかえり、教師に視線が集中する。教師の方も判っているというような表情をし、 少し渋い顔をした後、教壇に立ってこほん、とひとつ咳払いをする。
「もう知ってる者もいるかと思うが…昨夜、このクラスの生徒が行方不明になった。 今朝方まで捜索が続けられて、朝になってようやく見つかったが…」
こほん、ともうひとつ咳払いをする。
「亡くなっていたそうだ。」
しいん、としたまま、誰も動かない。
「どうやら歩いていて、滑って古い排水溝に落ちこんだらしい。塾へ行く途中で抜け道を…」
「どこで見つかったんですか?」
女子のひとりが叫んだ。
教師は彼女の住む町の名を告げ、
「マンションそばの舗装されてない道だそうだ。排水溝があるから危ないということで、 普段は閉め切ってあるんだが、近所の人も抜け道として使っていたらしく、 最近は仕切があまくなっていたそうだ。」
そうだろう。その仕切を最初に壊したのは私だから。
「ともかく、みんな夜歩くときは気を付けるように。それから…」
教師は彼女の名を呼んだ。クラス中の視線が一斉に、彼女に動いた。
好奇の目、目、目。みな知っているのだ。その生徒が彼女に対して持っていた感情、 熱烈な…滑稽なほどの恋情を。そのうえ死体が見つかった場所を考えれば、 これ以上見事なゴシップは無い。
「あとで職員室へ来るように。…話がある」
「はい」
彼女は、あの、鈴が鳴るような涼やかな声で応える。
それだけで、教師は何もなかったように出席をとりはじめた。
――それでは、これはあの生き物のことだったのだ。
私はいつになく興奮していた。勿論、外には出さない。
あの生き物は…彼女を汚そうとしていたあれは、間違いなく消えたのだ。
もう彼女の部屋のまわりで、うろつくこともなく、私と出会うこともない。
成功したのだ。
だが、気がかりは彼女のことだ。教師は彼女を職員室に呼びだした。何故だろう。 彼女の部屋が近いのが問題にでもなるというのか。それともあの生き物が、 何か彼女に関して遺書でも残していたというのか。
遺書。と考えついて、馬鹿馬鹿しくなった。らちもない。あれは私が消し去ったのだ。 そうとも。あの、排水溝へ突き落として。石を投げ入れ、息の根を止めたのだ。 そんなもの、残せるはずもない。
では何だ。
まあいい。職員室なら私だっていくらでも用事を作ることが出来る。 うろうろしていたって誰も怪しまない恰好の場所だ。問題はない。
そう、何も問題はないのだ。



問題は、3時間目の授業中に起こった。

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