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彼女 −かのじょ− 3

承(弐)


あくる日から、私の生活は一変した。
 何かが変わったのだ。なにが? 勿論、私だ。彼女の声を手に入れたのだから。
だがそれを人に知られたくはなかった。知った者は笑うだろう。私を嗤うだろう。 それも我慢ならなかったし、彼女もまた、うわさ話のタネになるに違いない。
それは全くもって、彼女への侮辱だ。彼女は、尊敬や愛情、崇拝されることは許されても、 それ以外は許されない。悪意など、彼女には似合わないからだ。
 …そうは思いながらも、私は自分のどこかに彼女を羨む気持ちがあるのを否定できなかった。
羨む、それだけならばまだいい。だが私の心に棲みついている「それ」はもっと醜いものだ。
憧れ、崇拝、その向こうにあるもの、それは「嫉妬」という感情だった。彼女が羨ましい、 妬ましい。私には無い全てのものが、彼女には許されているのだ。 その気持ちは複雑に私の中で混じり合っていた。彼女に対して何か出来るというわけでもない。 ただ見つめるだけだ。見つめるだけ。それだけで私の心は焼け付くような痛みにおそわれてしまう。 そしてその痛みもまたどこか、甘美なものだった。彼女に通じているものだと思えば、 全てのことが甘やかな香りをもって私の心を騒がせていた。


 彼女は毎朝きっちり定刻15分前に教室に現れる。雨の日もそれは変わらない。
彼女の住む町から学校までは、必ずバスに乗って来なければならないのに、 決して遅れることはない。いつも、必ず、15分前なのだ。
 授業中はうつむいて、静かに話を聞いている、といった感じだった。 特にノートを取っているようでもない。時折見せる――勿論彼女は無意識なのだろうが―― 物憂げな表情が、はっとするほど美しい。男子生徒の中には、 彼女に思いを寄せている者も数多くいるらしく、授業中、 彼女に見とれている者もひとりやふたりではなかった。 あからさまに崇拝の眼で見ているものさえいた。私は勿論、気付かれたりしない。 …もう二度と、あんな事を言わせないためにも、そ知らぬふりをするのだ。大したことではなかった。 あの子たちは頭が悪いのだ。少なくとも、私があの子たちより馬鹿なわけはないのだから。
 そして放課後、彼女はホームルームが終わった後、やはり15分後に、教室を出て行く。 その後図書館に寄り、1〜2冊本を読み、30分したところで出る。そして、下校。…毎日、 ほとんど変わらぬ時間で彼女は動いていた。ときたま、どこかのクラスの男子が、 呼び出したりしていたけれど、その時は図書館にくるのが少し遅れるだけ。 彼女の様子に変わりはなかった。
愛を告白される、などという馬鹿げたことにも、彼女は誠意を持って応えているようだった。そう、 誠意をもって丁重におことわり、というやつだ。つきあいをOKするなどということを彼女が するはずがない。彼女に釣り合う男子など、私が知る限りでは――そして皆が噂するにしても ――この学校にはひとりもいなかったからだ。
 彼女の家を知ることも、思ったよりも簡単だった。
 彼女は学校から真っ直ぐに帰っていたし、彼女の住む町は私の住んでいるところから それほど遠くはなかった。自転車で行けばほんの10分ほどでついてしまう隣町で、 その街で高級と言えるクラスのマンションに暮らしていた。独り暮らしなのか、 他の人間が出てくるところは見かけない。彼女は部屋に戻ってから30分後、買い物に出かけていく。 近くの店で日用品を買っているらしいが、特に食べ物と言っていいものは買っていないようだった。 せいぜい果物、ドリンク類、他には暮らしに必要な日用品だけだ。昼はお弁当だったから、 そのくらいは作っているのだろうとは思ったが、不思議な気がした。そして それ以降は… さすがに夜遅くまでの外出はかなわず、私も帰宅するしかなかった。
 朝も不思議だった。私はかなり早く起き出して、彼女のマンションの前まで行ったが、 遅刻しないための時間ぎりぎりまで待っていても、彼女は出てこない。いや、 一度は午前中ずっと見ていたのに、とうとう彼女は出てこなかった。 この日私は結局学校を休む羽目になり…――母親には途中で気分が悪くなったと言えばそれですんだ… ――彼女は間違いなく登校していた。いつ、彼女が部屋を出たのか、どうしても判らなかった。 でも、その不思議さも彼女をそっと見ていると納得できる様な気がした。…彼女には、そう、 なんというのか、生活感というものがなかったのだ。
 ただそこに立っているだけで、他の人とは違う何か…人を惹きつけてやまない何かを纏っているのだ。 彼女の周りにはいつも、なにか薄い光のようなものが満ちていた。ただ神々しいというのとも違う。 それは私をいつも嫌な気持ちにさせた。自分がこんなに劣っている。みっとも無い存在だというのを、 まざまざと見せつけられるような気がしたからだ。だがそれでも、彼女はひどく魅力的で、 そして、美しかった。




 そして。
 彼女の行動を見つめるようになってからしばらく経ってのことだ。
 その日も私は彼女をそっと見つめ、彼女が部屋に入り、また出てくるのを待っていた。 最近ではそれは日課になっていて、そのために多少家に帰るのが遅れるため、 母親から小言が出始めていた。私は聞かないふりをしていたし、何故なのかと問われれば、 図書館で勉強しているのだと言っていた。実際、勉強ばかりしていた頃に比べて 成績が下がることはなかった。人は習慣というものをそうそう変えたりは出来ないのだ。 彼女のことばかり考えていても、勉強さえしておけば誰もなにも言わないのだから、 なおさらだった。そして彼女が部屋から出てくるのを待つ私に、後ろから声がかかった。
 「何してんだよ、こんなとこで」
 驚いて振り返ると、それはクラスの男子で、…そして彼女の激しい崇拝者のひとりだった。 授業中、彼女をじっと見つめる姿は見ていていらいらさせられる。素知らぬふりが出来ないのだ。 何度も彼女を誘い、そのたびに彼女は困った顔をみせている…そんな子だった。
 「…」
 私は返事に詰まった。彼女を見ていたのだ、などと言うことは出来なかった。 そんな事を言えば明日にはクラス中にふれまわられるだろう。ぞっとした。
 「あいつを見に来たんじゃないのか?」
何気ないふりをして、その子が尋ねた。背筋が凍る。
 「そうだろ、あいつを見に来たんだろ。判るよ。あいつは特別だもんな。」
笑って言った。その顔が…私にはとんでもなくおぞましいものに見える。
 「俺もそうなんだ。まあ、振られ続けてるからさ、クラスの笑い者だろうけど。 俺、真剣だから…。あいつ、何を言ってもなしのつぶてだし。男がいるのかって思うけど、 そんな様子もないしなあ。」
のんびりと…口が動く。おそましい生き物が何かを喋っている。 いけない、と思った。 もうすぐ彼女が降りてくる。そしたら、この生き物は彼女に声をかけてしまうだろう。 彼女は困り果て…もう二度と降りてこなくなるかもしれない。
 「このマンションだって事はすぐ判ったけど…おい?どうしたんだよ」
 「違う…」
 「え?」
 「私は…たまたまここにいただけで…」
消え入りそうな声で私は言った。精一杯の言葉だった。そしてこの生き物は、 それに馬鹿のような笑い声で応えた。
 「なに言ってんだよ。あんたが彼女に憧れてたのは誰でも知ってるさ。 最近はあんまりそういうそぶりをみせてねえけどさ、俺だって彼女を見てるから、 判るんだよ、同じだから。」
私の心の中に恐怖が降りてくる。同類?私が? 冗談ではない。私はこんな、 無節操で汚くて、恥もないような生き物と同じなわけはない。私の体は震えていた。 どす黒い怒りが体中にまわって行くような気さえする。それなのに『これ』は…鼻歌を歌いながら、 彼女の部屋の方を見つめているのだ。許せない、許せない、なんて醜い生き物。
 「…彼女が…」
 「え?」
私の口を、何かの言葉が伝わり落ちてこようとしていた。そしてそれは、 私の決心をさらに強くしていた。
 「彼女が…いつも行く…店があるのよ。…そこで…いつも買い物するの…」
 「へえ?」
『それ』は目を輝かせて私を見た。期待に膨らんだ表情。私は渾身の力をふりしぼって その生き物に笑いかけた。歪んでいるのがわかった。でも、どうでもいいのだ。
 「教えて…あげる…だから…このことは」
とたん、笑い出す。
 「馬鹿だなあ。俺だって褒められたもんじゃないんだし。言うわけないじゃん。で、 それ何処にあるの?」
 「こっち…」
私は歩き出した。一刻も早く、この生き物を彼女の部屋から遠ざけたかった。 それにこの辺りは高級マンションが建ち並んでいるから、静かな場所はいくらでもあるのだ。 何が起こっても人に聞かれないような、そんな静かな場所が…。
 「おい、待てよ…」
慌てて追ってくる。そうして私はそんな静かな場所にこの生き物を連れていった。道は暗く、 足下は悪かった。いつも歩いている私でなければ、間違って転んでしまうような場所。そして、 使われていない深い深い排水溝。人がひとりで入れるだけの大きさしかない、掘られただけで 何処にもつながっていない、奈落への道。その前に来たとき、私は向こうの光を指していった。
 「あそこに見えるのがそうよ。いつも…ここから行くの。彼女より早く着けるから」
それは本当だった。だから私は知っていたのだから。
 「え…」
そいつが一歩を踏み出した瞬間を、私は逃さなかった。
どん、という大きな音がして、生き物の姿は私の前から消えた。叫び声が聞こえた。ぐしゃり、 という音が聞こえた。悲鳴が続いた。私は急いで周りの大きな石を探し、一瞬ためらってから、 それを投げ入れた。更に悲鳴が続いた。私はまた大きな石を投げ入れた。何度も、何度も、 悲鳴がやむまで、その深く昏い排水溝に向かって投げ続けた。




 汗びっしょりになっていた。


 私は身繕いをし、急いで彼女の部屋の方へ向かった。彼女が部屋に帰ってから、 30分はとうに過ぎている。もう出かけてしまったかもしれない。
だが、戻ったとき、彼女は今まさに出かけるところだった。 ブラウスにパンツというラフな格好に着替え、鍵を閉めている姿が見えた。 私は向こうからは見えない生け垣の影に身を潜めて安堵していた。彼女を脅かすものはいなくなった。 すくなくとも、これでひとつ減ったことは確かだ。
 柔らかな足取りで歩いてゆく彼女を見つめながら、私の心は充足感に浸っていた。

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