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彼女 −かのじょ− 2

承(壱)


 彼女のことが、頭から離れなかった。
 走るようにして帰宅した私は、自分の部屋へ閉じこもり、鍵をかけてベッドの中へ潜り込んだ。 誰にも邪魔されない、私だけの空間。そこでやっと、私は一息つくことができた。
 どうしたというのだろう。彼女の、あの一言が、馬鹿のように私の頭の中を駆け回っている。 終わらないリフレイン。彼女の仕草も、あの時の目も、不快な表情も、 思い出すだけで体の奥が痛くなる。どうしようもないほどに。
 そして、あの子の言葉。
『彼女の方ばかり見ている』
 本当だろうか。私はそんなに…今日のことがあるまでそれほど意識したつもり など無かったのに…彼女のことを見つめていたのだろうか。
 『彼女』を見つめていた、と考えると、いきなり、かっ、と顔が火照った。
 本当に、私はどうしてしまったのか。何をこんなに興奮しているのだろう。
それは些細なつながり、だったのだ。あの子は、彼女も気づいている、と言った。 彼女が、私の視線に気づいている。そして私はといえば、そのことに気づきもせず、 今までのほほんとしていたというわけだ。
 彼女は今頃どうしているのだろう。
 今日のことを気にしているだろうか。
 それとも、もう忘れてしまったのか。
 突然、激しい感情が私の中にまき起こった。忘れて欲しくない、という、切実な欲求だった。 …彼女が私をどう思っているのか、或いはいたのか、それは別の話だ。けれど今日、 彼女が私のことについて「悪いわ」とひとこと言った、それは覚えていて欲しかった。 私が彼女にとって取るに足らない存在でもかまわない。でもかすかなこのつながりを、 彼女の心の中から消したくはなかった。
 電話…そう、電話をしてみようか。彼女はまっすぐ家に帰っているはずだから、 今頃は家にいるはずだ。番号はクラス名簿を見れば判る。名簿は母親が持っている…
母親と顔を合わせるのは億劫だったが、背に腹は代えられない。
 私は着替えて部屋を出ると、台所で忙しく動いている母親の方へ声をかけた。
「…ねえ」
 突然、声をかけられてびっくりしたようにふりかえり、それからいらいらしたように応える。
「なに?いそがしいのよ。大したことじゃないのなら、後にして。 もうすぐお父さんが帰って見えるでしょう。食事の支度を済ませとかなきゃならないし…」
「クラス名簿、何処にあるの?」
「クラス名簿?…何に使うの」
 そんなこと、こっちの勝手だ、と思った。だいいち、私のクラスの名簿なのだ。
しかし癇癪は起こせない。つむじを曲げられて見せられないなどと言われたらおしまいだ。
「…その、友達が…」
 一瞬、友達、と言う言葉を使っている自分に、抵抗を感じた。友達などではない、 ただのクラスメイトなのに…いや、ただのクラスメイトでもない、彼女は、特別な存在なのだ。 私にとってだけではない。…おそらく、どんな人にでも…。
「なに?」
 苛々した調子で応える母親。どうしてこの人はこうなんだろう。 何もかもが自分のペースでなければ気が済まないのだ。なんて、醜い大人。
「…今日、具合が悪くて。私、心配だから…」
 当然、嘘だ。でも本当の理由を話しても、母親には理解が出来ない。 誰にも理解が出来ない。
 私自身にだって、よく判ってはいないのだ。
「そう。…そこの水屋の引き出し…ああ、二つ目よ、そこに入ってるわ。電話するの?」
「ちょっとだけ」
「そう、長くしないでね。お父さんからかかってくるかもしれないから…」
「少しですむわよ」
 言って、私は電話のある居間へと移った。
 長電話?そんなもの、した事なんてない。する相手だっていない。
 それさえも母親は気が付いていないのだ。母親のくせに。
 名簿の一番下に、彼女の名前があった。編入者だからだ。 ひとつだけ違う字体でタイプしてある。それがどこかふさわしかった。彼女はひととは違う。 …特別な存在には、特別な文字さえもが似合っているように見える。
 受話器を取り、震える指でナンバーを押す…どこにでもありがちな7桁の番号。 それが何故かとても神聖なものに思える。…この向こうに、彼女がいるのだ。
 呼び出し音が3回、鳴った。
 そして、受話器があがる音。
 瞬間、私は受話器を戻していた。
「・・・」
 何なのだろうか。私の心臓は爆発せんばかりに激しく動いていた。 体中の血管という血管が暴発しそうだ。頭の中でハンマーが鳴っている…。
「まだなの?」
 台所から母の声が聞こえた。
「ま…まだよ」
「早くしてちょうだい。…宿題は終わったの?」
「すぐすむわよ」
 私は素早く彼女の番号をメモに取った。これでもう二度と母親に聞かずにすむ。  そして、もう一度受話器をあげる。
 今度はナンバーは必要ない。リダイヤルすれば済むことなのだ。でも、 私はもう一度押したかった。彼女を確認するために。
 今度は3回もまたなかった。
 ほんのちょっと、コールが聞こえただけで、受話器はあがった。
 そして、声。
『もしもし』
 彼女だ。彼女の声だ。
『もしもし…?』
 彼女の声が、私に向かって投げかけられている。他の誰でもなく、私だけに。
『もしもし…どなた?』
 困惑したような声が、耳に入った。それでも、なんと美しい、柔らかな声なのだろう。
『もしもし…もしもし?』
 はっ、として、私は電話を切った。指が震えていた。いや、指だけでなく、体全体が。
(切ってしまった…)
 後悔が私の胸に走った。…彼女と話せるチャンスだったのに。
 でも、もしそこで彼女に拒絶されたら…。
 そう思うと、私に「話す」勇気などなかった。拒絶されるに決まっている、 という気持ちと、彼女なら拒絶などするはずもない、という気持ちが、 私の中で渦巻いていた。だがどちらにせよ、もう電話は切ってしまった。
「ちょっと、まだ電話してるの?」
 母親の声に時計をみると、私が名簿を借りてから、もう30分近くたっていることが判った。
(…30分?たったあれだけで…)
 そう思わざるをえない。
 取り敢えず、私が名簿を返しにゆくと、母親は眉をひそめて言った。
「どうだったの?お友達」
「…つながらなかったわ」
 私はそう言うと、それ以上詮索して欲しくないのを体で表すように、 自分の部屋へ引っ込んだ。どうせ、母親は気になどしていないのだ。 私が良い成績であり さえすれば、それで全てがうまく行くと思っている。
 でも、母親のことなど、私にはどうでも良かった。彼女の声を聞いたのだ。
 どうして今まで考えつかなかったのだろう。手を伸ばせば、彼女はいつでもそこにいるのに。
 いや、そうではない。彼女はそこにいるが、他人が手を触れてはいけないのだ。 それは私も同じ事。彼女と親しく話すなんて、おこがましい。クラスの女子たちは、 それをわきまえていないのだ。…仕方がない。あの子たちは、何にも判ってはいないのだから。
 でも、私は間違えない。彼女に不用意に話しかけたりしない。…騒いだりもしない。 ただ遠くから彼女をひっそりと見つめることは赦されるはずだ。
彼女にはそうされていることこそが似つかわしい。そして気を付けなければ。
クラスの女子たちは、 私が彼女をずっと見ていると言っているだから気を付けなければ悟られてはいけない 彼女は孤高の存在なのだから気を付けなければいけない気を付けなければ気づかれては…
 もう、どうでも良かった。
 彼女の声が私の耳の中で響いていた。
 私だけに向けられた声。
 私は、快感に酔いしれていた。

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