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彼女 −かのじょ−


彼女は今、私の手の中に在る。






 どれだけ彼女に憧れたことだろう。

 放課後、黄昏時の色に染まった教室で、ひとりものうげに腰掛けるその姿は、 ため息が出るほど美しかった。私はよく、その姿を廊下から眺めていたものだ。 ――決して気づかれぬようにして。
彼女の、ぬけるように白い肌や、柔らかそうな漆黒の長い髪、 ほんのりと朱を引いたような唇、色素が薄いのか、淡い彩を見せる大きな瞳も、 それらは見ているだけで私をうっとりさせた。椅子から立ち上がるときの優美なしぐさ、 かすかに膨らみを感じさせる胸や、折れそうなほど細い腰の線、制服のスカートからの ぞくすらりとした足も、全てが完璧と言って良かった。
 姿形だけではない。彼女はクラスの憧れの的だった。女子の中には、 それは妬んで彼女の悪口を言わずにおれないものもいたけれど、所詮は負け犬の遠吠えに 過ぎなかった。そういうことを言う者に限って、あまり良く思われていなかったし、 第一、その悪口だってはっきり言ってしまえば言いがかりだった。いわく、 彼女は自分の容姿を鼻にかけている、いわく、彼女は態度が悪い、 皆に溶け込もうとしない…云々…。
 溶け込もうとしない、というのは確かに本当だった。最初に彼女が転入してきたとき、 皆が息をのみ、ため息をついた。休み時間には早速クラス一のお喋りな女子が話しかけ、 あっという間に人だかりができてしまい…その日のうちに、彼女はもう人気者だった。 誰にでも微笑み、人の話にはうなずき、おかしな事があると柔らかく笑った。 しかしそれ以上にはならなかった。クラブにも入らなかったし、 放課後に他の女子と連れだってお茶をしに行くこともない。ただいつも、 あるかなしかの微笑みを浮かべ、そして誘われると必ずゆっくり微笑んで言った。
「ごめんなさい」
それだけだ。それだけ、ただ断っただけで、大抵のひとはまあ、仕方がないかと思わざるを得なかった。 彼女はそれは人を不快にさせるような事はしなかったけれど、なにかしら神秘的な… 一種独特な雰囲気みたいなものを持っていて、それがその細い体をオーラのように包んでいたので、 皆一様に「ああ、そうなのか」と思ってしまうようだった。
 彼女は本当に美しかった。
 容姿も、性格も、そして頭さえ良かった。何もかもが優れていた。そう…――
 私とは違って。
 私はと言えば、多分クラスで一番の嫌われ者だった。だいいち醜かった。
人は容姿で判別をつけてはいけないと言うけれど、そんなのは建て前だ。 私は彼女と同じように細かったけれど、彼女がスリムなら、私のはがりがりだった。 いつも青い顔をしていたし、髪の毛なんていくらといてもまとまらない。 瓶底のような厚い眼鏡をかけ、それもしょっちゅう下がってくるので手で上げなければならなかった。 背が低くてチビなのに猫背で、いつもうつむいていて、そのせいか誰も話しかけない。 たまに話しかけられても、あがってしまってうまく返事ができない。最悪だった。 でも良かったかもしれない。私はクラスの女子が話すテレビの番組や、アイドル、映画の話、 どれにもついていくことはできなかったのだ。
私の家のテレビは父親のものだったし、小遣いもろくになかったから、芸能雑誌を買うこともできなかった。 当然、お茶や、映画を見に行くことなどできるはずもない。できることといえば、 それこそ勉強くらいのものだったから、私は必死で勉強したものだ。母は、勉強ができさえすれば、 人から嫌われないと思っていたらしい。でもそれは却って私への評価を悪くしただけの事だった。 …勉強ばかりしている奴は嫌われるのだ。学校は勉強をしに行っているというのに。
 だから、彼女が編入して初めてのテストで、私を抜いてトップに立った時、 口さがない女子たちはひどく喜んで、いつもはあまり近づかない子までが、 彼女のまわりでほめあげていた。
「すごいわあ。美人で頭もいいなんて」
「あの眼鏡ザルなんて、他のことはてんでダメなくせに、成績だけはいいから、むかついてたのよね」
「すっきりしちゃった」
 女子たちがこれ見よがしに私を悪く言うのはいつものことだったから、 別に気にしないつもりだったけれど、さすがにショックなのは否めなかった。彼女が…―― 私にない全てを持っている彼女は、私のたったひとつの取り柄である「成績」でさえも、 私より上なのだ。
きっと彼女も私を笑うだろう。…クラスの、一番の嫌われ者、醜くて成績だけが取り柄の子。 他の女子たちの言葉にただ黙ってうなずいて、微笑むのだ。
 だが、そうでは無かった。
「悪いわ」
 彼女が幾分、不快そうにそうつぶやいたとたん、取り巻いていた女子たちの笑いが止まった。
「悪いわ」
 彼女はもう一度言って、窓の外を見やった。しん、とした空間が一瞬、昼休みの教室を包んだ。 離れたところにいた男子までもが、聞き耳を立てているのが判った。彼女がそんな表情をしたことが、 今まで無かったからかもしれない。みなびっくりして…当惑しているのが手に取るように伝わった。
「悪いわ…そんなことを言っては」
 そう繰り返すと、彼女は立ち上がって教室を出ていった。慌てて何人かの女子が後を追う。
 とたん、教室に色が戻った。幾分、ひそやかなさざめきと共に。
「なに?あれ…」
「彼女、あいつをかばうのかしら」
「いい子ちゃんよねえ」
「でも、なんか彼女が言うと『そうかも』って思わない?」
「そうよねえ。でも何であんな奴のこと、かばうのかしら」
 私はといえば、読みかけの文庫本をしっかり握りしめて、懸命に活字を追っていた。 追っているつもりだった。しかしその指はふるえ、私の頭の中はぐるぐると回って、 彼女の先ほどの言動を再生していた。
『悪いわ…そんなことを言っては』
 だれもそう言ってくれなかった。今まで、誰も…――!
 私がつまらない人間で、クラスの女子から馬鹿にされているのは判っている。 悪いのは私で彼女たちの方ではない。そう思おうとしてきたし、実際、自分から見ても、 私はつまらない奴だった。くやしいけれど、仕方ないのだ。私は今までもこれからも、 ずっと嫌われて生きてゆくのだ。そう思っていたのに…
『悪いわ』
 彼女の、多分気まぐれなたったの一言が、私の心を奪ってしまった。そう。 まさにこのとき、私は彼女に魅せられてしまったのだ。

 定石通り、という言葉がある。
 その日の夕刻、帰り支度をすませ、 雑談しているクラスメイトより一足先に下駄箱についた私を待っていたのは、 まさにその定石通りの歓迎だった。
「ちょっと、あんた」
 クラスの女子が2〜3人。お喋りが好きで、たまに彼女のまわりで話すことのある、 綺麗で馬鹿な女の子たち。あまりにパターン通りの行動に、私は苦笑を押さえきれなかった。 それが余計に気に障ったのだろう。その中のひとりが私の腕をつかんですごむ。
「彼女に庇ってもらったからって、いい気にならないでよ」
「ちょっと気まぐれに言っただけに決まってるんだから」
「あんたみたいな奴のこと、誰も本気で庇ったりしないんだからね」
余計なお節介だ、と思った。そんなこと、判っている。
私が黙っていると、ひとりが真っ赤な顔をして怒鳴った。
「なによ、薄気味悪い顔して!あんた気に入らないのよ。何でも判ってますみたいな顔してさ、 あたしたちのこと馬鹿にしてんじゃない」
 馬鹿にされる方が悪いのだ。でも、そんなつもりは無かった。…馬鹿になどできるわけもない。 この人たちと私では、世界が違う。この人たちのようにはなれないのだ。私には。
「黙ってないで、何とか言ったら?」
 いらいらした調子でその子は言った。…やり返す気もなかった。囲まれてこんな事を言われて、 気持ちがいいはずは無かったが、今だけ我慢すればいいことなのだ。どうせまた明日になれば、 いつものように無視され、聞こえるように嫌みを言われるだけのことなのだから。
「ねえ!ちょっと…」
「まあまあ、」
 私に掴みかからんばかりに(実際、腕はつかまれていたけれど)していた子を止めたのは、 彼女が編入してくる前、クラスで一番人気があった子だった。やはり綺麗な子だったけれど、 彼女とは比べものにならない。それでもどことかの芸能プロダクションに誘われたと言っていたから、 並よりは良いのだろうけれど。
「あのさあ、あんた、自分が彼女のこと、どんな顔して見てるか、知ってる?」
 …え? と、思わず口に出そうになった。
 何を言っているのだろう。私が?彼女を?
「物欲しそうな目、っていうの?なんだかさあ、気持ち悪いんだよ」
 薄笑いを浮かべて、その子は言った。あきらかな侮蔑が、その言葉にあった。
「彼女はそりゃ綺麗だし、ああいう性格だからあんたのことも悪くは言わないだろうけどさ、 憧れるのも判る気はするけど、あんまり彼女の方ばかり見ない方がいいんじゃない?」
 私が?彼女の方ばかり見ている…?
「彼女、な〜んにも言わないけどさ、気づいてるよ」
 そして、その子はふん、と笑った。それは、どんなに激しい罵倒の言葉よりも、 私の心にショックを与え…瞬間、私はその子たちを突き飛ばすようにあとずさり、 自分でも判る驚愕の表情を浮かべたまま、外へと駆け出していた。背中から、笑い声が聞こえていた。
――他の生徒たちが降りてきたのだ。邪気のない笑い声だと判っていても、私には それが、自分への嘲笑に聞こえて仕方がなかった。

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