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LUNATIC DOLL・31

Runaway From Yesterday


その、少し、前。
利幸はひたすら駅を目指して走っていた。
後ろを振り返ることなく、前へ、前へ。…後ろにあるのは現実。甘い夢を見ていた自分が、いきなり突きつけられた事実だ。 友美が妊娠したという事実を、利幸はどうしても納得することができない。…いや、それは分かっている。分かっていても 受け入れられない。
母親。そして自分は父親。幸せな家庭。
それがずっと夢見てきた自分自身の夢であるにも関わらず、それがいざ実現しようとしている今、そのことは何故か恐怖の対象にしかならない。
母親――その言葉に甘い記憶はない。自分が父親から投げつけられていたすべての言葉は、いつもそこに終始していた。
――お前さえ…お前さえいなければ…
父親のあの目。そして苦悶の表情。
だが、そうであっても今は父親にすがりたかった。どうしていいのか判らない――父親はいつも正しい。絶対だ。 嫌でも、我慢が出来なくても、痛くても、辛くても、父親にさえ逆らわなければ、いずれなんとかなる。温かい食事と寝床。 父親の言うことに従ってさえいれば――それが手に入る。許してもらえる。
その父親に逆らって得た、初めての自由。
友人、ひとり暮らし、働くこと、学ぶこと、人との交わり、そして――友美。
だが、その友美は母親になるというのだ。母親に。自分には既に居なかった存在。 父親が自分を責め続けた原因。家庭。ぬくもり。
怖い。
そんなものは――知らない。
見たことがない。
だが、父親が居る。なんとかしてくれる。どうにか――この混乱は収まるはずだ。
父親に許しを請えば…そうすればすべてが元に戻る。たとえ嫌な思いをしても、いろんなものを失っても、 あの父親がなんとかしてくれる。だから…――
だから、会わなければ。
会ってなんとかしてもらえれば…
利幸は、走った。



最寄りの私鉄Y駅に、黒い車が停まっていた。
利幸が近づくと車のドアが開き、初老の男がおりてくる。実際にはまだ五十を過ぎたばかりなのだが、 髪も白くなっており、顔には深い皺が刻みつけられている。落ちくぼんだ目だけに妙な迫力があり、それが、どこか怖い印象を与える男だった。
「――お父さん…」
「久しぶりだな、利幸」
男は薄く笑うと、あごをしゃくった。乗れ、ということだ。
利幸は逆らわない。実際に会って、父親に逆らうことなど、利幸に出来るはずはない。
黙って乗る。後から父親が乗り込み、合図をすると、車はすぐに動きだした。
沈黙が流れる。
「…おひさしぶり、です」
息の詰まりそうな空気の中で、かろうじて利幸はそう言った。
「そうだな」
父親がいらえを返す。
「――なにか、ご用ですか」
気力を振り絞って、そう言葉を紡ぐ。
「たいしたものだ。私にそのような口をきけるようになったとは」
そうだった。いつも、いつも――彼が父親の前で言えたのは、ただ、ごめんなさい、という謝罪の呪文だけ。
「…いえ…」
「学校はどうだ、楽しいか」
「は…はい」
「アルバイトもしているらしいな」
そう言うと、父親は利幸の方を向き、にっ、と笑った。
その貌にどこか寒気を覚えながらも、話題が友美の事にならないのを安堵する。…知られていないのか?まさか――では、何故。
「はい」
「学業の方をおろそかにしてはいかんぞ。咲田教授から話は聞いているが、小児科の方へ進みたいそうだな」
「え――あ、はい」
「うちは内科が専門だ。小児科がいかんというわけでは無いがな」
「はあ」
「まあいい。それはどうにでもなる――それより、アルバイトはもうやめることだな」
「え?」
「これからはもっと忙しくなる。わけのわからん輩も多い。学業に専念しなさい」
「あ、でも…」
「しなさい、というのが判らないのか」
口調が心なしか強くなる。
「…はい」
「――それでいい」
そして父親はまた黙る。その沈黙が、自分を無言のうちに責めている事を、利幸ははっきり感じた。
――言わなければ。言って、許しを請うて、そしてなんとかしてもらわねば。
「あの、お父さん…」
「――手切れ金は百万というところだろう」
「…は?」
「すぐに堕ろさせる。病院はこっちで手配しよう。」
「そ、それは…変――」
「利幸、言ったはずだな」
ぎろり、と、父親の目が動いた。
「女と遊ぶな、とは言わん。お前も年頃だ。だが、くれぐれも言ったはずだ。決まった女とつきあうのはやめろ。とな」
「お、お父さん」
「それも、同棲しているらしいではないか。…忠則に聞いたぞ。あいつも今まで黙っていたのは申し訳ないと泣いて謝った。」
「叔父さんが…」
マンションのオーナーである叔父の家は遠く離れていたし、滅多に様子を見に来る事もなかったから、気づかれているとは思わなかった。いや、 たとえ部屋に上がられても、同居人がいることは判らないように気をつけて居たはずだ。
それだけではない。日頃から――利幸と同居するために、友美がどれだけ細心の注意を払っていたことか…電話も別にし、 会社へ届ける住所も、住民票も、保険証も…公的にはすべて――そして私的にも、特に仲の良い友人たちだけにしか、 二人の同居は知られていない。唯一の例外は友美の直の上司だが、彼女にしても、二人の部屋がどこにあるのか知らないのだ。
「子供を作るなど、馬鹿げたことを――お前に子の親などつとまりはせん。第一、まともな子が産まれるはずがない。…あの場所で出来た子供など…」
「え…?」
「ともかく、すぐに縁を切れ。お前の相手はもう見つけている。うちの近くの病院のお嬢さんだ。お前が戻ったらすぐに婚約する。」
「そ、そんな…」
「嫌ならすぐに連れ戻す」
断固として、父の声は冷たい。
「だけど…今、危ないんだ…三ヶ月だって、それに、不安定みたいだし…」
「堕ろすなら今のうちだ。今なら私が話をつけてやる。どうせ、お前の継ぐ病院が目当ての女だろう。両親もいないし、 姉は入院中だ。話は早い」
「だ、だけど…」
「逆らうのか、利幸」
「お父さん…!」
「私に逆らうのか、利幸、それがお前に出来るか?なにも知らん、ひよっ子のお前が。――与えられるだけで何の苦労も知らないお前が」
父親の目は真正面から利幸に向けられていた。その落ちくぼんだ先にある光はにぶく光り、…そして、どこか異様だった。
「だけど…だって――」
「お前のためだ、利幸」
なだめるように、急に優しく父が言う。
「お前のためなのだ。…お前も私も…いずれお前が結婚して出来る子供…すべて家のためだ。そうとも――」
そうして口の中でつぶやく。
「こんなことくらいで潰させはせん」
「だけど、でも、子供を堕ろさせるなんて――そんな事しなくても…」
「では、どうする気なのだ」
「それは…」
言われて利幸は口ごもった。どうしていいのか判らなくて――だからここへ来たのだ。父親のところへ。 父親ならば、いいようにしてくれる、と信じて。
だが、それにはすべてを失わなければならない。今の生活も、友人も、そして何よりも大切になったもの――友美も。
「お前にそんな事を考えることなど出来ない。それでいいのだ。さっさとあの女を捨てろ。そして全部忘れて学業に専念しておればよい。 なんなら…うちの近くの大学に入り直せばいい。そうすれば家から通える。最初からそうすれば良かったのだ」
それが嫌で、無理に家を出たのだ。
「だけど…でも、あれは僕の子供で――」
僕の、子供。
その言葉が、利幸の中で重く響く。
現実。
家庭。
父親と母親。
それが恐ろしくて――
でも、それでいいのだろうか。父親に任せ、今まで通り、すべて父親の言うとおりにしておけば…
この場は逃れられるだろう。
今は楽になれる。
それでいいのかもしれない――
すべてを全部やりなおして…またはじめて…でも
そこに、友美はいない。
アルバイト先の友人たちも、同じ講義を取っている友人も、葛城も、斎も、なにもかも――
そこに、友美は、いない。
「判ったか…判ったらともかく今日はこのまま家に帰りなさい。忠則には私から言っておく。女を追い出すにしてもすぐにはいかんだろうし。住むところでも 見つけてやらねば後が…」
「だめだ」
「利幸?」
「だめだ、お父さん――出来ません」
「何を言う!」
父の貌が一変する。
「今言ったばかりだろう。お前に何が出来る。――お前のために言ってやってるんだぞ」
「駄目なんです、お父さん――僕には…彼女を、友美を捨てることは出来ない」
「馬鹿な!たかが子供くらいで――」
「お父さん!」
利幸は叫んだ。一瞬、父の厳しい目にひるみ、それでも負けじと言葉を続ける。
「駄目なんです。僕はやっと…やっとここまでこれた。だからもう亡くしたくない。友美も、子供も――だから、お父さんの言うことは…」
ばしん!
父の平手が利幸の頬に飛んだ。
「――まだ言うのか、お前は――お前は判っておらんのだ、あの場所で宿った子供がなんなのか…何を意味するのか――」
父の目が光る。炯々と――その光が利幸の中に突き刺さる。恐怖。そしてなにかまがまがしいもの。 良く知った筈の父の目の奥に、見たことのない何かが映る。それが利幸の意識を捕らえてゆく。急激な失速感。
何故か意識が遠のくのを感じながら、それでも利幸は言った。
「これだけは…譲れないんです。僕は今、はっきり判った。馬鹿だった。あなたに逆らうのが怖くて――家庭が怖くて…貴方という存在が怖くて… だけど僕は貴方とは違う。僕は――」
最後まで、利幸は続けることが出来なかった。
向かい合った父の胸に倒れ込んでいきながら、利幸は心の中で叫んでいた。
(――友美…!)



そして彼女は今――闇の胎内に在った…。

TO BE CONTINUED…


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