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LUNATIC DOLL・13

Voice Of Minds



闇がある。
なま暖かい闇だ。
しめった匂い。腐臭。肌に触れる土くれの感触。
何も見えない恐怖。
なにも聞こえない絶望。
いや――聞こえるものがある。
心の臓の音だ。
とくん、とくん、とくん、とくん
ふたつの音が重なり合う。
とくん、とくん、とくん、とくん
闇だ――――

「…くん」
「……」
「…くん、桑田君」
「…」
「桑田君、聞こえないのかね?」
はっとして、友美は我に返った。夢を見ていたのだ、それも、目をあけたまま…
「ちょっといいかね?」
背後からの声に振り返ると、苛立たしそうにまるい銀縁の眼鏡がうごいた。――係長だ。
「はい、あの、なにか――」
「ちょっと話があるんだ…接客コーナーまで来てくれ」
顎を動かしてそういうと、銀縁眼鏡が遠ざかって行く。友美は仕方なく、 手元の書類をまとめて席を立った。隣の席の同僚が目配せをする。 うるさ型の係長のお小言だと思っているのだ。困ったように笑うと、 「いつもの事よ」というようにちょっと手をあげて係長の後に従った。
週のはじめの昼下がりである。
ブルーマンデーなどという言葉あるように、月曜日は憂鬱な日が多い。 休日の楽しさや忙しさの後の出勤――それも、食事が終わった後のこの時間帯は、 そうでなくともぼんやりしている者が多い。それだけならまだしも、 どうやら彼女はかなり長いこと眠っていたらしかった。
体がだるい――。
しばらく前から続いている頭痛と目眩は、最近では慣れっこになってしまったが、 それでも無くなったわけではない。出社していてもぼおっとしていることは多いし、 第一最近は体調がひどく起きあがれないこともあり、休みがちになっていた。 会社自体はそれほど忙しい時期ではなかったし、その前の夏の休暇も取らせてもらえなかったので、 女子社員の休みに対しては寛大な時期なのだが、それでも当日に突然休みを取ると、 仕事に全く差し支えないというわけにもいかず、あまり歓待されない。 友美は普段から真面目に勤務していたし、彼女の仕事は――それほど重大というわけではないにしろ―― ある程度責任も伴うものだったから、殆どの同僚、上司などはむしろ、彼女が体をこわしたのではないか、 どこか悪いのか、それとも――何か悩みがあって、神経的に参っているのではないかと心配していた。 当の本人はそれさえも気が付かず、ただ、自分の事で精一杯であったのだが。 しかしそれでも休みがちなのは判っていて、迷惑をかけていることに申し訳なさは感じていたし、 やらねばならない仕事はきっちりやっていた。少なくとも、 会社の業務に支障をきたすようなことはしなかった。彼女は結構責任感の強いところがあった…というか、 自分で責任を背負い込むようなところさえあったからだ。
だから、会社の空気としてはおおむね彼女に好意的だった。 ――元々それほど大きくはない中小企業だし、同僚は皆仲が良かったと言うこともあるだろう。 ――しかしそれでも彼女は自分の中の悩み…「妊娠」ということを、人に言うことは出来なかったのだが。
ともかく、そういうわけだったので、社内でも好かれていない、若いくせに小うるさい係長の 「呼び出し」は、多分、その小言だと思い、友美は言われるまま、 事務所の一角にある接客コーナーへと急いだ。途中で係長が近くにいた女子社員にお茶を言いつけるのが聞こえて ――係長は神経質でケチで有名だったので、部下を叱るときなどにお茶を出させるような男ではなかったのだ ――ふに落ちないと思いつつも。
「またお小言よ、ホントに好きなんだから」
横から小さな声で同僚が声をかける。
「…仕方ないわ…」
友美は肩をすくめて小さく返事をし、コーナーへ入った。とはいえただ単に衝立を設けて、 家具セットを置いてあるだけのものなのである。声が外にもれるのは必定だ。
係長はその大きなソファーに腰掛けて友美を待っていた。苛々した様子で座るように言う。
「あの、係長…」
友美が口を開こうとした途端、ムッとしたように言った。
「まず僕が話をするんだ、君は黙っていなさい」
「はあ…」
それから――話はまず、最近の女子社員の態度から始まった。朝礼の時に落ち着きがない。
私用電話が多すぎる。書類が揃ってないことが多い(まあ、この事に関して言えば、 この神経質な係長自身にも問題があったのだけど)残業をしない、就業時間中にお喋りが多い… 等々、ありきたりの話だ。そうしてたっぷり30分は喋ってから、やっと友美の話になった。
「だいたい最近、君は休みが多いじゃないか」
「…はい」
「体が不調だとか言ってるようだが、そんな事で休むなんて、たるんでるんじゃないのか?」
「…」
「それとも何か――?君が休んでも業務に差し障りがないと思っているのか?」
「…いえ」
「そうか?君のように責任のない仕事をしてれば判らないだろうがね。確かに暇だろうさ。 僕のチームは特にね、何しろ業績は一向に上がってないからな。」
「…そんな…」
「そうだろう?そうさ、業績が上がらないのは何も僕のせいじゃない。なのに皆、僕は悪いと いうのだ。こそこそ話したり――君のように休んだりね。それも皮肉のひとつなんだろう、ええ? そうなんだろう?」
いつのまにか係長の目の色がどす黒くなっていた。ぎらぎらと光っている。
「そうに決まってる。だいたい君は自分の立場が判っているのか? この不況時に女子社員がどれだけ必要だと思ってる?いらないんだよ、君たちは――必要ないんだ、それなのに。 女子社員を雇ってるのはお情けだ、お情けなんだよ――それなのに勝手に休む、就業中に居眠りする、 挙げ句の果ては体調が悪いだ?――僕はね、社員を辞めさせることだって出来るんだよ、 それなのに我慢してやってるんだ・・そもそもね…」
殆ど狂わんばかりの――というより、係長の独白に近いもの言いが続いていた。 これまた割と良くあることだった。実際、不況なのは本当だったし、女子社員の数も多いかもしれなかったが この男に社員を辞めさせる権限など無かった。彼は社長の縁続きだというだけで係長になっているこの男の こういうお小言は、一種の天災なのだと思って我慢し続けるしかなかったのだ。
でも――
「だいたい、体調が悪いと言ってるが、君、妊娠でもしてるんじゃないのかね?」
びくん、と友美の肩が震える。――そしてこの男はそれを見逃さなかった。
「そうなのかね?君はまだ、確か結婚してないはずだが?」
「…いいえ…」
彼は舌なめずりをせんばかりの顔で目を光らせた。どこか、この展開を待っていたかのような様子が見え、 思わず友美は寒気を覚えた。罠にかかった獲物――
「たいしたもんだね。ええ?――君のご両親はなんというかね。おお、これは失言だったね。 君にはご両親もいないものねえ。先の『暗黒の3年間』の時に亡くなられたんだよね。失敬、失敬」
そして妙に優しい、粘り着くような声に変わる。
「僕はね、別に君を責めてるわけじゃないんだよ?君は優秀だしねえ、 出来るなら辞めさせたくないと思ってるんだ。だけどねえ、仕方ないんだよ。 君も知ってるようにうちの社だってリストラでもしないとねえ…」
そこではじめて――友美は係長の用件が「お小言」だけではないことに気が付いた。そうだ。 この小心な男は友美の失態を待っていたのだ――
「リストラって…」
「まあ、そういうこともあり得るってことだよ。それにねえ、何もすぐってわけじゃないし、もし そうなったら次の勤め先は世話してあげられると思うよ。…君も知ってるだろう?玖亥(くがい)商事。」
「くがい…あ、はあ、はい」
この会社としては最大手の取引先である。というより、いつ吸収されてもおかしくない相手だ。
「そこの若社長がね、お見えになったとき、この会社の女子社員は良いって褒められてね」
「若社長が?」
言われて、友美は思いだそうとした。…確かに、たまに来ることもあるのは知っている。 だが顔を見たこともないし…――いや、そうだ、この間確かに見た。他に誰も居なくてお茶を出したのだった。 顔は――覚えていないが、確か同僚たちは凄い美形だと噂していた様な気がする。 気に入られれば玉の輿だとか、そんなこと――
「聞いてるのかね?」
「あ、はい――玖亥さんですね。はい、判ります」
「社長と君は知り合いなのかと聞いたんだが?」
「え?いいえ。先日お茶を出したのが初めてですけど?」
「じゃあ、君の相手が社長だというわけじゃないんだね?」
「はあ?」
唖然として友美は係長を見た。
「では、誰が相手なんだ?結婚する予定でもあるのかね?それなら会社を辞める事になるだろう。 だがすぐに辞められたらこっちは大迷惑なんだ。だいたいね――」
「係長」
――と、落ち着いた声が割って入った。
「な、なんだね」
言いたいことを中断された男は、慌てて立ち上がり、むっとした様子を見せる。 コーナーに入ってきたのは、女子社員でも最古参の先輩で、友美たち女子社員の主任だった。 係長とは同期なのだ。縁故で役職についただけの係長よりは、仕事も社員の信頼も数段上だった。
「お茶を煎れてきましたけど――そろそろお止めになったらいかがですか?」
「な、なんだよ。君には関係ないだろ。神無生(かんなぎ)さん」
喋り方も友美にしていたように偉そうにすることが出来ない。
「桑田さんはあなたの管轄ですけど、直の上司は私です。第一、 こんなに長い間お喋りの相手にされてちゃ可哀想です。もう用件はすまれたんでしょう?」
「用件、用件って――あ、ああ」
「じゃ、もう良いでしょう。彼女に頼みたい仕事も溜まってるんです。いいでしょうか。係長?」
彼女は係長、と強いアクセントで言った。それは勿論、役職を笠にきて女子社員に文句を言う事への最大の皮肉だった。
「判ったよ。…しかしね、桑田君――先刻言ったことは別段嘘じゃないんだ。考えておきたまえ。いいかね――もし…」
「失礼」
それ以上を彼女は言わせなかった。友美の肩を抱き、男の方を見もせず、接客コーナーを出ていく。
コーナーの中で係長が悔しそうにぶつぶつ言っていたがかまわなかった。 そのまま女子社員が集まっている席の方へ行き、友美を席に座らせると、ポン、と軽く肩をたたいた。
「あんな奴のいうことなんか気にしなくていいから」
「神無生さん…」
「それより、悪いけど明日の会議の資料、作って置いてくれる?桑田ちゃんが頼りなのよ」
「あ〜、主任ったら、私たちじゃだめなんですかあ?」
向かいの席の同僚が声をかける。
「そーいう意味じゃないわよ。河野ちゃんたら」
「でも確かに桑田センパイが一番うまいですよね、会議の資料作り」
後輩が混ぜっ返す。
「かわりに河野ちゃんは経理に関しては完璧なんだから、いいじゃない」
「ま、トモよりはね」
笑い声が起きた。立派な就業中のお喋りだ。
「さあさ、あと1時間ちょっとで今日も終わるわ。がんばって片づけちゃいましょう」
神無生の声に「はあい」と応えて、女子社員はそれぞれの仕事に戻った。勿論、友美も。
明るい雰囲気がそこにあった。誰も、友美に問いただそうとはしない。聞こえていたはずなのに。
 ――妊娠してるんじゃないのか?
 ――リストラでもしないとねえ…
 ――知ってるだろう?玖亥商事――
誰も聞こうとはしない。友美にはそれが有り難かった。気を使ってくれているのだと判った。 いずれ尋ねられるかもしれない。でも、今。友美に興味津々で聞いてくるようなひとが居ない事が、 とても嬉しかった。
でも、と資料を用意しながら友美は考えた、係長はなにを言いたかったのだろう?小言だけでなく、 嫌味はあるだろうけど。リストラは有り得るかもしれない。会社の状態が悪いのは判っている。 しかしいきなりリストラというのは考えにくい。それに――玖亥商事の話は何だったのだろう。 本当にその社長が褒めたのか?自分は顔も覚えていないのに。それに、係長は友美の妊娠を 知っていたようだった。いや、知らなかったにしろ、疑っていたらしいとは判る。
でも、それで何故、玖亥社長が出てくるのだろう?
――が、しかし、友美の物思いは長くは続かなかった。何より今そこにある仕事を片づける事。 それが先決だったからである。彼女はてきぱきと資料を集め、整理し、書類を作り、終業時間に 間に合うように急いで仕上げた。
ようやく出来上がり、主任チェックも終わったときは、終業時間をだいぶすぎていたが。
「――OK。やっぱ桑田ちゃんのは判りやすいわ」
満足したように神無生主任が言い、友美はほっとして息をついた。
「よかった。前の会議から結構期間があいてたから、大変だったんです」
「うん。そうだと思います。だけど良い出来よ。お疲れさま。さ、今日はもうあがりましょう」
「はい。主任は――?」
「私も上がるから…そう、じゃあ、お茶でもしようか?」
「…え?…ええ」
「じゃ、私は配ってから上がるから、先に行ってて。そう、『ウミノ』にしましょう。いい?」
「は、はい――」
気押されたように友美は返事をし、口の中でお疲れさまでした、とつぶやいていた。 神無生はにっこりと笑って立ち上がり、資料を配りはじめている。相談しようと思っていたのは確かだった。 少なくともリストラがあるのなら、神無生がそれを知らないはずは無かったし―― 件の玖亥社長が来たとき、友美以外に事務所にいたのは神無生だけだったのだ。釈然としない事をはっきりさせておきたかった。
それに――
もうそろそろ、打ち明けるべきかもしれない。明後日は産婦人科に行くことになっている。 もしそうなのなら、早く言っておくに越したことはない。神無生は信用のおける先輩で上司だったし、 少なくとも――たとえ利幸が何と言おうとどうしようと――子供を堕ろすことだけはしまいと、そう、友美は思い始めていたのである。

TO BE CONTINUED…


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